続 まな板の鯉(恋)
いよいよ手術当日を迎えました。
少し涼しさを感じる、晴れてはいないが、曇りというには少し明るい
曖昧とした、まるで私の気持ちそのままの天候です。
正午を少し過ぎたばかりのころに、病院の再来受付機に
カードを差し込み、番号の入った書類を携えて
歯科・口腔外科の窓口へ。
予定時間より早めにつきましたので、読みかけの本を読むことに。
「競争優位を実現する ファイヴ・ウェイ・ポジショニング戦略」
星野リゾート社長 星野佳路 監修
漠然とした恐怖感を払しょくするためには、
ハードな読み物を集中して読むに限ります。
かなり読み進んだのですが、やはり、当たり前のことが書いてあります。
外国の翻訳物は価格が高い。
その割には、私には何度でも読み返そうと思う
本が少ないのは、私の低いレベルの問題なのでしょう。
少し飽きたので一息。
署名捺印した「手術承諾書」に目を落す。
手術名:良性腫瘍切除術 部位:舌表面中央部
「舌表面の中央部に血管腫があります。今後、増大する可能性があるため、
麻酔をして5mm程度の切開を加え、糸を2~3本かけて取り除きます。・・・」
読み終わる頃に、名前を呼ばれて手術室へ。
一般の歯科医院のものよりは、一回り大きな、真新しさが残る
アイボリーに近い白くて、いかにもメカニカルな椅子に座らされました。
「今日の体調はどうですか?」と優しい主治医の言葉。
「充分眠りましたし、朝食もしっかり取りました。」
すると、くだんの女医さんが、「写真を撮ります」と
一眼レフより大きくて正方形に近い、wowowの刑事ドラマの
証拠写真を撮るようなカメラを構えます。
思い切り舌を出し、2枚撮影しました。
他の患者さんや新米医者の為になれば、それは素晴らしいことです。
次に少し年輩で小柄な左手薬指に指輪をはめた看護師さんが
これまた優しく、「これで、口をうがいしてください。」と
薄い緑色の液体が入った紙コップを差し出しました。
4,5回うがいしましたが、味はあまりしませんでした。
その後に、ほぼ水平になるくらいまでに
ゆっくりと背もたれが倒れていき、顔の上に
紙と薄い布が重なったような40~50センチ四方のものを
かぶされました。
口のあたりは直径10センチほどの穴が開いています。
圧迫感のない目隠しのようです。
「それでは始めます」
40歳台と思われる、穏やかで紳士然としたすらっとした主治医の執刀です。
「11番のメス用意してください」
「ちょっと痛いですよ」と2か所に麻酔注射。
「手術中に痛かったり、気分が悪くなったらすぐに手を挙げてください。」
「うん、これくらいの痛みだったら、我慢できる」
目隠しされているので、想像力を働かせる以外にありません。
「今。メスが入ったようだな」
すると、主治医の声で「下に動脈がある」と張りつめた声。
「ええい、もうどうにでもなれ。」
そう思いつつも、舌を出しながら、
思わず肩に力が入っているのに気づきました。
力を抜くように意識するのですが、唾液がたまり咽ぶような感覚。
ちょっと手を挙げようかなと我慢の限界に近づいたときに
縫合している雰囲気。
「出血も止まっていますし、もうすぐ終わりますよ。」と主治医の声。
最後まで手を挙げずに終了。
振り返ってみれば、わずか20分前後の手術。
摘出した血腫を見せて頂いたのですが、
3~4mmほどの赤くて細い血管の塊でした。
安堵感と疲れからか、腰を少し前に出して、だらしなく
手術室前の待合室のソファーに座っていました。
当然、本も読む気になれません。
すると、「抜糸は1週間後でよいでしょうか?」
傍らに、屈みこみながら、
はっとするほどの近さで、私の目を下から見つめていた
あの彼女の顔には、メガネはありませんでした。