まな板の鯉(恋)
それは、連日続いていた雨が降りやんだ、
鼠色に覆われた雲と今までの雨のせいか、
ただでさえ鬱陶しい空気を更に重くするセミの鳴き声が耳に残る
昼下がりの日でした。
「癌ではないと思いますよ。」の一言にホットはしたものの
それに続く「でも、少し大きくなっていますね。」の言葉に
不安は拭い去れませんでした。
「これからも、出血があると心配なので、大きな病院で診てもらいたいのですが。」との
私の問いに、「わかりました。○○病院を紹介しましょう。」と
すぐに、別室で紹介状の作成に取り掛かってくれました。
彼は、2代目の歯科医師で、若いが、いかにも真面目そうな眼鏡の奥の瞳と
安心させてくれる笑顔が気に入って、私のかかりつけになっています。
数か月前の朝、口の中の唾液らしいものが妙に増えて、それで目が覚めました。
洗面所に行きその妙なものを吐き出すと
血がかなり混ざっていたのです。
「えっ、なんなんだ」
鏡の前で口を開けて見ると、舌の真ん中あたりから血が出ています。
舌を精いっぱい出して更に観察すると、確かに真ん中あたりが少し膨らんで
その中央部から出血しています。
何度かうがいをしながら観察を続けると、数回で出血は止まりました。
たまったものが出尽くしたような感じでした。
数日間何事もなかったので、そのまま放っておきました。
それからおよそ2か月後、また出血し、今度は量が増えました。
その後1週間で2回出血したので、さすがの私も覚悟を決めて
かかりつけの歯科医院を尋ねて相談したのです。
紹介してくれたその病院は、私の中では(自分勝手格付けですが)
かなりのレベルと思っていましたし、若先生が推薦してくれる先生だからと
少し安心しました。
数日後、紹介状を持って、立派な、近代的な設備が充実している
その病院に行きました。
かなり待たされると聞いていたのですが、思ったより早く
レントゲンやその他の検査が進み、1時間後には
初診専用と思われる診察室へ。
どんな先生かと少し緊張しながら部屋に入りました。
するとそこには、背丈は1.55m~1.58mくらいでしょうか、
少し長めの黒髪を後ろでグレーのゴムのようなもので結わえた
黒縁の眼鏡をかけた、いかにも若そうな白衣の女医がいたのです。
「えっ、うそだろう、大丈夫なのか。」がその瞬間の感想でした。
その後、問診を受けるうちに、主治医が後で診に来ることを聞いて一安心。
気持ちにゆとりが出来て、今度は私が彼女のことを根ほり、葉ほり聞くことに。
よくよく観察すると、スレンダーで黒縁眼鏡も嫌みのない知的さを醸し出しています。
何倍もの難関を潜り抜けて、この病院へ入ったこと、
奇遇なことに、私と同じ大学で青春時代を過ごしたことなど
私の質問を無視するわけにもいかなかったのか
一人で勝手にかなり盛り上がっていました。
主治医の先生が来るまでは、私の覚悟など何処へやら。
そして、いよいよ、彼女曰く「素晴らしい腕」の主治医の登場です。
いくつかの質問を出しながら、薄いゴム手袋をしてガーゼのようなもので
私の舌を引き出しての触診。
「摘出しましょう」