一つの区切り
2025年10月27日(月)は、午前中に日経平均の暴騰を眺めながらも、妙な違和感は拭えませんでした。
世間に幻惑されずに、自分の信念とマイペースを維持すべきと、返って冷静になっています。
株式投資の画面を閉じ、ゆっくりと新聞2紙を読了。
市内3店舗の経理に出かけた真ダムがいない階下に降りて行き、水を一杯飲んでおもむろに洗面所へ。
資生堂MENのヘアワックスをつけ、髪型を整えました。
それから2階に上がり、クリーニングに出していたブルックスブラザーズのタブカラーの薄青色のシャツの袖に腕を通します。
エンジとゴールドのマッケンジーのレジメンタルタイを締め、Jプレスのネイビーのジャケットに同メーカーのグレーのピンチェックズボンをはき、茶色のベルトを締めて完成。
先週デパート外商の若い女性に選んでもらったコロンを、両手首の内側と両耳たぶの裏側につけます。
10数年前に思い切って購入した、クロケット&ジョーンズのブラウンのタッセル付きスリップオンを履いて、RCに乗り込んだのが午後12時45分頃。
向かう先は「福岡国際会議場 国際会議室501号室」
『令和7年 自動車・観光・交通政策関係功労者等九州運輸局長表彰』に出席するためです。
14時開始前30分に受付に行くと、書類一式を渡され55番の席に通されました。
私のラッキーナンバーは「2」と「8」と思っているのですが、この「55」という数字にもとても縁があります。
そうなのです、約300名の受賞者中2名だけが二輪業界から選ばれ、九州運輸局長に表彰されたのです。
私と、ホンダのバイクショップの社長さんの二人。
『多年にわたり自動車整備事業の経営にあたり事業の振興に努め業界の発展に寄与した』ことが授賞の理由でした。
とても光栄に思いました。
関係筋から後数年私に頑張ってもらうと、次は東京で国土交通大臣の表彰を受けれるとのこと。
詳細を聞くと自費で東京まで行き、大臣と写真撮影をするだけとのことで、丁寧に断りました。
来年の2月末で、事業承継のために引退する旨も付け加えました。
バイクショップの社長さんは75歳で、何と1980年創業の方でした。
少し話をしただけで、とても良い人物と判断できるような人柄でした。
当時は1店舗で7人の社員を雇いながらも相当儲かったそうです。
その時代がなかったら子供を4人も大学等にやれなかったと。
1980年~1983年には、二輪新車の国内販売が、現在のおよそ10倍にあたる300万台を超えていました。
最近メーカーが自分のことしか考えていなくて、販売店を蔑ろにしている傾向に、困惑されていました。
二人の娘さんも二人の息子さんも後を継がずに生計を別にされているそうで、私のことをとても羨ましいと。
私が後日その方の店にお伺いすることを約束し、別れました。
そのまま、笹岡のイオンまで車を飛ばし、いつものようにカットフルーツ、ラッキョウ、チョコレートを購入し、ヤクルトの12本セットをプラスして、両親が入居するホームへ。
宮崎県産の今まで購入していたものと同じラッキョウが、30円も値上がりしていて328円+消費税になっていたのには驚きました。
受賞会場に出かけようとしたその時に、父親から携帯に電話がかかってきていたのです。
ホームの受付に行くと、見知った女性3人が目を丸くして「誰だか分かりませんでした、どこかの会社の社長さんかと思った」と口を揃えて言うのです。
「うわ~ほんとね、有難う」と言うと暗証番号がないと開けられない、強化ガラス製の玄関ドアを開けてくれました。
何時もジャージかよれよれの服を着てしか行かないからでしょう。
母親の部屋に入ると同じようにきょとんとしています。
暫くしてやっと私の名前を確認する始末。
父親の認知が進んでいることが少し気がかりでしたが、元気そうで何よりでした。
何も知らないで飛び込んだ二輪業界。
小さな事を疎かにせずに、真面目にコツコツと38年間続けてきたら、誰かが私のことを見てくれていたのでしょう。
推薦状を書いてくれたものの、複雑な数種類もの書類を提出し、2ヵ月もの審査期間を経て、やっとこの様な晴れの舞台に参加できました。
未だに魑魅魍魎(ちみもうりょう)な部分が残る二輪業界で、審査に合格するのは稀だそうです。
改めて関係各位に心より感謝申し上げます。
一つの時代が終わり、素晴らしい花道となった気がしています。
