たれをかも 知る人にせむ・・

 9月は週末ごとの台風で、幼稚園児のラグビーが中止となり、先日久し振りに出かけました。

新たな見学者が二人来ていて、年中・年長併せて11名となり、一気に賑やかになりました。

 記述していた小学受験を目指している年長の女の子が私の元へ来て、「ねえねえ先生、百人一首しっとお?」

「うん?まあまあ」と口を濁すと、『誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の友とならなくに』とすらすら言い切ったのです。

残念ながら私はこの歌を知らずに何度も聞きなおしました。

 私が「ごめん全然知らん、今度調べてくるね」と言うと、「私、月曜日から日曜日まで漢字で書ける」と。

私が「ひょっとして、西南学院小学校ば受けるとね?」と聞くと、「うわー,なんでしっとっと!」

 我が息子達が悩んでいる孫の西南学院小学校受験、噂にたがわず相当レベルが高いと思いました。

それでも、幼い頃から百人一首に親しませること自体には賛成です。

彼女が普通の公立小学校へ行ったら、恐らく授業はつまらなくなり、浮いた存在になるでしょう。

そういったことまで考えるならば、小学校や中学校もレベルに合わせたところを選ぶことは重要だと感じました。

 『誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の友ならなくに』

これは藤原興風(ふじわらのおきかぜ)の句で百人一首34番。

直訳すると、「誰を一体親しい友人としようか。長寿で有名な高砂の松も昔からの友人ではないのに」

これは我々のような年を重ねた老人の哀歌なのです。

親しい友人が一人二人とこの世を去ってしまい、誰もいなくなってさみしい。ずっと昔から変わらない松と親しくしたいけれど、松は何も語らず友達にもなれない。

 私が知っているのは二つだけです。それは体験からきています。

ひとつが、サラリーマン時代静岡県を担当していた関係で、否応なく覚えさせられました。

『田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ』

この句は山部赤人作4番です。

田子の浦の見晴らしが良い所へ出て、富士山の素晴らしさを謳ったもので、冬の富士山は私も本心から感動しました。

 次の句は、『あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む』

この句は柿本人麻呂作3番です。

山鳥の長くのびた尾のように、長い長い秋の夜を、恋しいあの人と離れてたった一人で寝るのは寂しい。

 思わぬところで、勉強のネタが増えました。

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